吹奏楽との出会い。

松井 隆司 先生

兵庫県立伊川谷北高等学校吹奏楽部 顧問
神戸学院大学吹奏楽部、管弦楽団 指揮者
明石フィルハーモニー管弦楽団 指揮者
神戸市吹奏楽連盟 理事長
兵庫県吹奏楽連盟 理事
(2007年7月31日現在)

取材班:
最初に先生の簡単な経歴と吹奏楽を始めたきっかけをお話しいただけますか?
松井先生:
僕は明石の生まれで、家の近くの神戸大学付属明石中学校から県立明石高等学校に進学しました。大学は大阪教育大学で、在学時に音楽の先生の教員免許を取得しました。大学卒業と同時に新設の県立明石北高等学校で教員に採用され、その後県立兵庫高等学校に転勤、この間に神戸大学大学院(修士課程、指揮)へ内地留学し、現在は県立伊川谷北高等学校でお世話になっています。
僕自身が吹奏楽を始めたきっかけとしては、中学生の時、実は最初僕はテニス部だったんです。でもあの当時、「うさぎ飛び」とか「走り込み」とか「腹筋」とか「裏山へ上がって降りて来い」とか、いわゆる筋トレメニューが中心で、「こんなしんどいクラブ、僕には続けられん」と思ってすぐやめて、その後ブラバンの門を叩いたんです。もともと小さい頃からピアノを習ったりするなど音楽が好きやったし、校舎から聞こえてくる吹奏楽の音色がずっと気になってたんですわ。入部当初は小太鼓がしたかったんで打楽器パートをやらせてもらったんですが、それも次第に飽きてきて、今度はええかっこしぃでトランペットがやりたくなったんです。それでパートを変えてもらって、その後は中学・高校・大学とずっとトランペットですわ。だから吹奏楽を始めたきっかけと聞かれれば、やっぱり中学生の時に聞こえてきた先輩の音色ですかね。

将来は兵庫県で一番上手な吹奏楽部になろう!

松井 隆司 先生
取材班:
先生が大学卒業後、教員として最初に赴任した県立明石北高等学校のことについてお話しいただけますか?
松井先生:
大阪教育大学在籍中に教員免許を取りまして、僕が大学を卒業する年にたまたま県立明石北高等学校が新設され、そこで音楽の先生として採用されることになったんです。それが1972年の事で、同時期に同校の音楽部(=吹奏楽部)を立ち上げました。もちろん、新設校なので生徒も1年生しかいませんし、クラス数も6クラスしかない学校だったので、音楽部の立ち上げ時は大変苦労しましたね。
部員数は最初は確か9人やったかなぁ。ちょっとしかおらへん上に、生徒があまり部活に参加したがらない。ほっといたら直ぐに家に帰ってしまうんですよ。しょうがないから、とにかく放課後になったら部員が帰らないように、僕が校門で立ち番してましたね。でも、一人を連れ戻してはその間に別の部員が帰ってしまうんですけどねぇ(笑)。
それとクラブに楽器がないことも苦労しましたね。県立明石北高等学校は新設校のため本当にお金がなく、まして学校が「吹奏楽部を作りましょう」って言ってくれたんならともかく、僕が吹奏楽を好きで始めたクラブだったんで、学校にはなかなか楽器を買ってもらえませんでしたね。
他校に楽器を借りたりしながら何とか部活動を続けているうちに、4、5年ほど経つと県立明石北高等学校へ行って吹奏楽をしたいと思ってくれる中学生が少しずつ現れてきたんですよ。それまでは、吹奏楽をしたいなら名門である県立明石高等学校や県立明石南高等学校へ行くのが当たり前で、楽器もないし演奏も下手くそな明石北にわざわざ行きたいと思う生徒はいませんでしたから。実はあの頃は僕もよく中学校をまわりましてね、中学校の吹奏楽部に行って練習を見させてもらい、その都度中学生に向かって「将来明石北へ来いひんか」って声がけしていましたよ。中学生の生徒達は嫌がっていましたけど(笑)。それでもその効果もあったのか、ちょっとずつ明石北を志望する中学生が増えて来たんですわ。で、部員数が40人くらいになった時は、そりゃものすごく嬉しかったですね。
話は戻りますが、音楽部を立ち上げた時、部員の9人を前に僕はこう言ったんです。「今は兵庫県で一番新しい学校やから、吹奏楽の一番下手くそな学校に決まってるけど、将来はなぁ、明石で一番上手な高校、いやいや兵庫県で一番上手な高校になろうや」って。僕も若かったからええかっこ言うてましたけど、生徒も生徒で、「そんなアホな事できるわけないやろ」とか「その手には乗らん」とか言うてましたわ。でも今では県立明石北高等学校音楽部も上手になり、県内の吹奏楽の名門校に数えられるようになったんで、あの時僕が言ったことはまんざら嘘でもなかったなぁと嬉しく思います。結局県立明石北高等学校には、13年間お世話になりました。僕が大学を卒業して教員に就いたのが22歳、生徒は15、16、17歳くらい、今思えば高校生と似たような年格好の僕が生徒を指導してたんですよね。懐かしい思い出です。

音が向こうの方まですーっと聞こえていくんですわ。

松井 隆司 先生
取材班:
先生の指導の甲斐あって、県立明石北高等学校音楽部は1983年に「歌劇『イーゴリ公』よりダッタン人の踊り」で全日本吹奏楽コンクール金賞受賞という偉業を成し遂げられましたが、その時のことについてお話しいただけますか?
松井先生:
創部から10年を経て、全国大会初出場でいきなり金賞受賞。これは嬉しかったですね。でもそれ以上に嬉しかったのが、その2年前の1981年に念願叶って初めて兵庫県代表として選出された関西吹奏楽コンクールです。この時は本当に嬉しかった。でも結果を出せたことで僕自身に慢心があったのでしょう。翌年は兵庫県大会止まりの結果となってしまいました。その悔しさをバネに生徒達が一生懸命練習したことが1983年の全日本吹奏楽コンクール金賞受賞に繋がったのかもしれませんね。
それに、生徒達がだんだん上手に演奏するようになるにつれ、僕もかなり細かいところを見るようになりましたね。実のところ、それまではやっぱり雰囲気で音楽を作ってた面があるんですよ。演奏者の気持ちが盛り上がったら、演奏も盛り上がり、おそらく観客も盛り上がるやろと勝手に思い込んでたんです。でも、どうもそうとは限らないということがわかったんで、例えば音程を厳しく見るとか、音量のバランスをどうするかとか、そういった面をかなり細かく整理したことは覚えています。
全国大会に出場できた理由をあえてもう一つ挙げるなら、県立明石北高等学校音楽部では全国大会に出場したこの年の数年前ぐらいから、外での合奏を始めたんです。ご存知かも知れませんが高校の周りはすっごい田舎で、ほこりがいっぱい立つんですよ。今から考えればそんな環境の中でやらんでもと思いますが、でも外で合奏すると音が田んぼを越えて向こうの方まですーっと聞こえていくんですわ。合奏を重ねるうちに空気の圧力のせいもあるんでしょうが、かなり音色的にも、それからいろんな面でも良くなったような気がします。でもやっぱり今考えると、オーボエやフルートなどの木管楽器を外で演奏するのはねぇ・・・乱暴なことをしたと思いますよ(笑)。

部長の嬉しい一言。

松井 隆司 先生
取材班:
先生は次に県立兵庫高等学校に赴任されましたが、その時のことについてお話しいただけますか?
松井先生:
1985年に県立兵庫高等学校に赴任しました。県立兵庫高等学校吹奏楽部は前任の顧問である吉永陽一先生の指導の下、全日本吹奏楽コンクール出場をすでに何度も果たしており、その当時から県内有数の名門校でした。もちろん指導者が変われば考え方や方向性もいろいろと変わるんで、僕自身はあんまり気にしないようにしていましたが、兵庫の生徒達は不安だったと思いますよ。でも僕が初めて吹奏楽部の部室に顔を出した時に、その当時の部長が部員に向かって言うんです。「自分らは今まで吉永先生という素晴らしい先生に指導してもらいました。そして今日からは、吉永先生同様に県立明石北高等学校でやっぱり全国大会に出場された松井先生に来ていただけることになりました。指導力のある二人の偉い先生に見てもらえるんだから、僕らも頑張りましょう」って。それを聞いて「この生徒たち偉いなぁ」って思いましたね。実際のところ、慕っていた先生がどっかに行ってしまって、思いもしない先生がいきなりやって来て、そりゃ嫌な思いはいっぱいしたと思いますよ。でもそんな中、当時の部長がそうやってみんなの気持ちを抑えてくれたのが嬉しかったですね。

コンクールでスタンドプレイ!?

松井 隆司 先生
取材班:
高校の部でも兵庫県の演奏レベルが高いことを全国に知らしめてくれたのがまさに県立兵庫高等学校吹奏楽部だったわけですが、その快進撃の始まりが1989年の全日本吹奏楽コンクール金賞受賞だと思います。その時の自由曲は「ディオニソスの祭(F.シュミット作曲)」でしたが、その曲を選曲された経緯を教えてください。
松井先生:
1989年は確かに自由曲に「ディオニソスの祭」を演奏して全国大会出場を果たしたんですが、実はあの年の自由曲はいわく付きで、元々は交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら(リヒャルト・シュトラウス作曲)」がやりたくて、自由曲として演奏するつもりだったんですよ。ただちょうどその頃から作曲家の著作権についてうるさくなりだして、結局のところ交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」については演奏許可が下りなかったんですわ。困った挙げ句、「もうええわ、これで」って決めた曲が「ディオニソスの祭」やったんです。ちょっと耳に残ってた曲だったもんでね。だから「ディオニソスの祭」は「ティルがあかん、しゃあないなぁ、もうええわ、行け」、それぐらいの軽い気持ちで決めた曲なんで元々は何の思い入れもありませんでしたね。
でもいざ演奏するとなるとなかなか大変な曲で、「ディオニソスの祭」は元々100人以上の編成で組まれた楽曲なんでね。しかも楽譜の中にいっぱい知らん楽器名が書かれてあるんですよ。あれはかないませんでしたねぇ。でもこの時の生徒達は本当によく頑張ってくれて、この難しい曲を目いっぱい吹いてくれました。
取材班:
そう言えば、「ディオニソスの祭」を演奏した同じ年の課題曲「ポップスマーチ『すてきな日々』」では、コンクールでトランペットがスタンドプレイをしたことで話題になりましたね。まさにコンクールがコンサートになった瞬間でしたよ。
松井先生:
あの課題曲は途中にスイングもあるしとってもいい曲で、僕も大好きな曲でね。曲中でトランペットにスタンドプレイを是非やらせたかったんですよ。で、兵庫県大会まではスタンドプレイをしたんだけど、さすがに関西大会だけはちょっとやめといたほうがええなと思って自粛しました。でも全国大会に出場が決まると後はもうどうでもええと言うか、やりたい放題やろうと思ってスタンドプレイを復活させました。

バレエ音楽は便利!

松井 隆司 先生
取材班:
県立兵庫高等学校吹奏楽部は1989年以降8年間で7回も全国大会出場を果たす全国屈指の実力校となったわけですが、逆にプレッシャーはありませんでしたか?
松井先生:
生徒にはプレッシャーはあったんだと思います。バレエ組曲「火の鳥」を演奏した年なんかは、本当に可哀想なほど生徒達はプレッシャーを感じていましたからね。生徒の中には普門館のステージに立つ前から泣いてる子もいましたよ、「チューニングがうまくいかない」って。しかもその年全日本で銀賞やったんですよ。すると「昨年は金賞だったのに~」、そんなことで泣くんですよ。立派に全国大会まで出場しているのにね。生徒達自身にも演奏で思い通りにいかなかったところがあったんでしょう。だから銀賞っていうのがやっぱり辛かったみたいです。生徒達はすごく焦ってて、追い詰められてて、本当に可哀想やなぁとあの時はそう思いましたね。
取材班:
1990年以降松井先生は自由曲にバレエ音楽を多数選曲されていますが、バレエ音楽のいいところはどんなところですか?
 【1990年バレエ組曲「火の鳥」、1992年バレエ音楽「ロメオとジュリエット」、
  1993年バレエ音楽「シンデレラ」、1994年バレエ音楽「白鳥の湖」、
  1995年バレエ音楽「眠りの森の美女」で全日本吹奏楽コンクールに出場】
松井先生:
本当ですね、あんまり意識はしてなかったんですけど。バレエ音楽って便利なんですよね。曲想が流れるようなのがあったり、躍動感があったり、ワルツがあったりするんで。コンクールで演奏する場合、6分から8分ぐらいの短い時間に曲を収めないといけないでしょ。言葉は悪いけど、バレエ音楽は使い勝手がいいんですよ。本当のバレエだったら初めがこの曲、次はこの曲って演奏する曲順があるんだけど、コンクールの場合は曲を自由に組み合わせることで6分から8分のコンサートになればいいと思っています。それにバレエ音楽は1曲1曲が短いんで、組み合わせもしやすいんですよ。それで結構僕は好んで演奏してますね。
取材班:
実際バレエ音楽を演奏するに当たり、生徒さん達はそのバレエの題材を理解して演奏しているのですか?
松井先生:
頭では理解していたと思います。とりあえずは曲から入ります。なかなか本物のバレエを見るチャンスがないので、以前は生徒達にその曲のバレエのビデオを見せたり、ストーリーを説明したりはしていました。実際ビデオで見ても、もう一つと言えばもう一つなんですけど、何も見ないよりは少しはましかと思いまして。よくCDでバレエ全曲版や抜粋版が売られていますが、実際のバレエで使われている曲とはテンポ設定などが全然違いますよ。バレエで実際に演奏される曲はバレリーナが踊りきるためにとってもゆっくりなテンポであったり、ジャンプした時のタイミングを計ってあったりするんだけど、音楽だけが収録されたCDは譜面の通りですっごく早かったりするんですよ。僕らみたいにコンクールで演奏するだけならそういうことも有りだし、「別に音楽だけ切りとって演奏しても、それはそれでこの曲は活きるやろうな」と思うんです。

阪神・淡路大震災の経験。

松井 隆司 先生
取材班:
1995年の阪神・淡路大震災について是非一度先生におうかがいしたかったのですが、当時はかなりご苦労されたんじゃないですか?
松井先生:
阪神・淡路大震災では幸いにもその当時の吹奏楽部員は誰ひとり怪我がなかったんです。それから楽器もたいした被害にはあわなかったんです。ただ、県立兵庫高等学校吹奏楽部には自前でハープがあったんですけど、それはひっくり返って折れてしまっていて、僕も思わず「あちゃー」って言ったのを覚えています。あと震災の時は練習がとにかくやりにくかったですね。そもそも兵庫高校自体が避難所で被災者がいっぱいおられたんで、気楽に合奏なんかしている場合じゃないんでね。震災後数ヶ月間は兵庫高校から楽器を運んで、県立鈴蘭台西高等学校に建てた仮設のプレハブで練習していましたね。その後兵庫高校に避難しておられた被災者の数もだいぶ減り、ようやくいつもの音楽室が使えるようにはなりましたが、まだまだ練習がやりにくい状況ではありました。被災者の方もまだ校舎内にはおられるんで、「ちょっと通して下さい」って言って廊下を通らせてもらうんです。廊下なんかいっぱい人が寝てはるんでね。布団と布団の間を通り抜けながら音楽室に入らせてもらって、「ちょっと音出すけどすいません」とか言いながら練習を始めるんです。被災者の方々も「音楽が聞こえることはいいことですから」とか言ってくれはってねぇ。とにかく震災時はものすごく大変でした。でもその年も何とか全国大会に出場できたんですわ。不思議ですね。幸いにも部員達の家庭にご不幸がなく生活の基盤が保たれていたから、まだ生徒達も楽器を吹く気になってくれたのかもしれませんけど、それにしても追い詰められた状況での生徒の気迫に圧倒されました。だからこの年のコンクールはある意味思い出深いですね。
取材班:
ちなみに松井先生はコンクールではクラシックの大曲を自由曲によく選曲されますが、曲の編曲はどうなされていますか?
松井先生:
県立兵庫高等学校吹奏楽部で僕がコンクールで演奏した自由曲のうち、ディオニソスの祭以外の曲は全て、現在県立神戸高等学校で物理の先生をされている西山潔先生に編曲してもらいました。西山先生は元々兵庫高校吹奏楽部のOBで上手に曲を編曲して下さる方なので、僕はずっとお願いしていましたね。例えば、「うちは今年はこのパートがちょっと弱いので」とか「このパートをもう少し活躍させてやってください」とか、その年のクラブの実力に合わせてオーダーメイドで曲を編曲していただけるんで、とても助かります。実は今年の伊川谷北の自由曲も西山先生に編曲をお願いしたんです。なかなかいい仕上がりですよ。

正直、もっと下手くそかなと思っとったんです。

松井 隆司 先生
取材班:
そして、1997年4月に現在の県立伊川谷北高等学校に移ってこられたわけですが、その当時のお話をお聞かせください。
松井先生:
この伊川谷北高等学校も面白い学校でね。僕が赴任してきた当時も、ここの吹奏楽部のメンバーは30人くらいと結構おったんですよ。ただ、とにかく日替りのメンバーで、「あの子は昨日は来とったけど、今日は来てへん」の世界で、部員同士でもあの子が正式な部員なんか、そうじゃないんかがようわかってへんのです。ひと月経ったら急におらんようになる子もいましたね。要は、その当時は人の出入りが自由で、やってもやらんでもどっちでもええような、そんなクラブやったんです。一応毎年コンクールには出場していましたから、それなりには練習もやっとったんでしょうけどね。
取材班:
片や前年まで5年連続全国大会に出場している県立兵庫高等学校吹奏楽部と、片や県大会に未だ出場したことのない県立伊川谷北高等学校吹奏楽部、先生にとっては正直かなりギャップが大きかったのではないですか?
松井先生:
もちろんギャップはありましたけどね。でも言ったら悪いですけど、実はここに来るまではもっと下手くそかなと思っとったんです。だから最初の印象は「思ってたより結構吹くやん」って感じやね。それこそ県立明石北高等学校の創部当初は部員数9名で、演奏もほんまにぼろぼろやったからね。それと比べると全然ましやし、それに少ないけど学校に楽器もあるしね。要は生徒にコツコツと練習する習慣がついていないだけやから、「とにかくコンクールやるぞ」って僕も生徒にハッパをかけましたよ。生徒達も僕の気持ちに一生懸命応えてくれました。おかげでコンクールではいきなり初の兵庫県大会出場を勝ち取り、兵庫県大会では銀賞でしたが、それはそれで生徒達も大喜びでしたよ。
取材班:
ちなみにその年の自由曲は仮面幻想(大栗裕作曲)でしたが、その曲を選んだ理由をお聞かせください。
松井先生:
クラシックを演奏すると、どうしても「音色がどうや」とか「音程がどうや」とか「音楽の流れがどうや」とか、そんなことを考えなあかんでしょ。さすがにその当時のクラブでは、あんまり細かいことを言っても実力的に出来ませんからね。その点仮面幻想という曲は、そういうことよりも演奏の勢いとか全体の雰囲気があれば、すごくノリのいい曲だけにそれでかなりの部分が曲として成り立つことを僕は知っていましたから。確かにリズムは難しいんでよく練習しました。ここの生徒は今までそこまで突っ込んで音楽をしたことがなかったけれど、その当時はそりゃあ生徒達もすごく盛り上がりましたよ。

まだまだ発展途上!

音楽室での練習風景

音楽室での練習風景

取材班:
そして、ついに2003年に県立伊川谷北高等学校も兵庫県代表で関西吹奏楽コンクールへの出場を果たし、2005年には惜しくも関西地区代表にはなれませんでしたが金賞受賞と、着実に力がついてきていると思うのですが、先生は今の県立伊川谷北高等学校吹奏楽部をどうお思いですか、また、このクラブの特徴などがあればお話しください。
松井先生:
確かに神戸地区大会から兵庫県大会、兵庫県大会から関西大会と上のステージに上がってはいるけれど、僕からしたら順番に上がっていっているだけで、何か特別なことが起こって、飛躍的に進化したということはないんですよ。僕自身はずーっと同じスタイルでやってきたからね。それと今の伊川谷北について言うならば、まだまだ発展途上の部やと思います。手応えはありますけどね。だから特徴って人に言えるようなものはまだ何もないんですよ。「今日は合奏がない日やから、ここの部分とここの部分が出来てないんであのパートとあのパートは何時から一緒に練習しましょう」というように、部長やパートリーダーを中心に、やっと自分らの段取りの中で練習を組むことが出来るようになったぐらいですから。
ただ昔に比べると、吹奏楽部に入部してくる部員の数は増えましたよ。その一つの要因は、この学校には芸術科目に焦点を合わせた特色選抜入試がありますからね。でもそれ以外でも入部する生徒の大半が吹奏楽をしようと思ってこの学校を選んでくれているんで、吹奏楽への意識も高く、僕としては嬉しい限りです。今年も部員数は百名を少し超え、全校生徒数から比べると吹奏楽部員の割合は結構高いんですよ。だから何をしても吹奏楽部は目立つんですわ。「成績が悪い」って言うたら吹奏楽部員、「授業中に寝てた」って言うたら吹奏楽部員というふうにね。僕はずっと生徒に絡んどかなあかんのですよ。大変ですよ、いろんな人に謝りまくって(笑)。
取材班:
今年のコンクールはどんな曲目を演奏されるんですか?
松井先生:
課題曲はⅡのコンサートマーチ「光と風の通り道」やね。あれは、僕が曲を聞いて決めました。自由曲は、先ほど話題に上った交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら(リヒャルト・シュトラウス作曲)」です。著作権もクリアして、やっと演奏出来ることになりましたよ。西山先生にめでたく編曲してもらってね。だから、ちょっと今年の曲には思い入れがあります。「よし、いっちょやったるか」って。それにこの曲はホルンが出だしからかなり大変なんですけど、今年はホルンにわりと力を持った生徒達が揃ってるんでね。それもあってこの曲を選びました。

音楽をしたいという気持ちが大切。

音楽室での練習風景

音楽室での練習風景

取材班:
先生は生徒を指導するにあたり、どのような点に気をつけていらっしゃいますか?
松井先生:
前回の「Theインタビュー~時代の音を奏でる指導者たち~」に登場された吉永先生は、出来るだけ生徒のそばに居ることが大切だと話されてましたが、僕は出来るだけ生徒から遠くに居たいって思っているんですよ。生徒のペースで、生徒の考えで部活を運営してくださいって。だから練習のことにしてもそうやし、「今日何時からどうしよう」とかの段取りのことについても出来るだけ生徒に任せる。ただ、僕なりに自分の枠は持ってるつもりなんですよ。生徒から見ると、それは遠い地平線の先にあるのかも知れませんけど。だから生徒には僕のことは遠慮なく、自分達のペースで、自分達の考えで出来るだけやって欲しいんですよ。僕の思いとしてはそれがあるんだけど、実際にはなかなか難しいこともありますけどね。それでも僕は生徒をあんまり怒らへんのですわ。よく部長からは「先生もっと怒ってください」とか言われるんやけど、僕はあんまりね。まぁその代わり部長が恐いですから(笑)。
取材班:
教育という枠の中での吹奏楽については、先生はどうお考えですか?
松井先生:
吹奏楽を通して、例えば人格形成をするとか、人間を磨くとかってよく言いますよね。確かにそういう考え方はあるんやけど、僕はね、根本的にその考え方は嫌なんですよ。やっぱり本筋はね、そんなもんやなしに吹奏楽をしたいから部活をする、こっちの方が大事やと思うんです。確かに世の中何でもそうやけど、したいことをするためには、したくないこともしないといけない。僕はよく生徒に「その鯛焼きのあんこ食べたいんやったら、嫌でも外側を食べとかんと。あんこだけ食べたらお腹こわすやろ」、そんな風に言います。やっぱり音楽をしたいという純粋な心がまずは有りきです。
その一方で学校の中で音楽をするためには、やっぱりクリアすべき事はクリアしとかんとあかんと思います。例えば自分の勉強の成績がすごく悪くなると部活をやっとれんし、周りの人に迷惑をかけるようなことがあれば、それも部活をやっとれんことになる。だから、好きな部活をするためには掃除もしとかなあかんし、服装もきちっとしとかなあかん。それが出来ていない生徒には「でもそれは、あなたがやりたいことをするためには必要なことなんやで」って言います。正直僕の考え方はちょっとうがった考え方で、教育者としてはこの考え方はどうかなと思うところもあるんですけどね。

定期演奏会で毎年「合唱」!?

音楽室での練習風景

音楽室での練習風景

取材班:
今年の6月に県立伊川谷北高等学校吹奏楽部は第15回定期演奏会を開催されましたが、その中で第Ⅲ部が「合唱」ステージでした。吹奏楽の練習の一環で「合唱」をする高校は聞いたことがありますが、吹奏楽部の定期演奏会のプログラムに「合唱」が入っているのはとても珍しいと思いますが?
松井先生:
そうなんですよ。伊川谷北の定演では必ず「合唱」をするんです。確かに音をとるために、吹奏楽の練習ではよくコーラスをしますね。でもうちの高校はそうではないです。本気で合唱コンクールに出たろうかと思うぐらい真剣に練習しています。最初は生徒達も「合唱」をすることに抵抗があったとは思うんですが、みんなだいぶ馴染んできましたね。 定演の2ヵ月くらい前になったら毎日昼休みに練習をします。すごい大変やけど、ここ何年も続いてますわ。もちろん「合唱」をすることで吹奏楽が上手になるということはあるんですが、それより何よりも「合唱」はいいんです。「合唱」は人間の持つ声、つまり自分自身で音楽になるんです。「今日はちょっと楽器の調子が・・・」、そんなんあらへんからね。声は自分の思った通りに出せるし、逆に思わないと出せないし...すごい直接的でしょ。それに楽器を通して間接的に音を響かせるのとは違い、自分の声でホールが"ワーーン"と響くのは、直やからすごくいいねぇ。それが、僕は好きなんです。「合唱」の時は、生徒達もみんな一生懸命楽しそうに歌ってくれてね。とてもいい体験やと思いますよ。
実はこの「合唱」、僕が県立兵庫高等学校に居る時に始めたんです。だから県立兵庫高等学校も定期演奏会で「合唱」をするんですよ。で、伊川谷北に来ても兵庫の時と同じように僕は定演で「合唱」することを続けているんです。だからおそらく定期演奏会のプログラムに「合唱」があるのはその2校だけです。吹奏楽部の定期演奏会で「合唱」のステージでしょ、聞きに来た人はがく然としますよね。でも、自画自賛ですが僕は結構上手いと思いますよ(笑)。
取材班:
先生の今後の目標、夢などをお聞かせください。
松井先生:
さっきお話した通り、県立伊川谷北高等学校吹奏楽部はまだまだ発展途上のクラブです。テクニックではなく音楽に集中できるくらい生徒にはやっぱり上手くなって欲しいと思いますし、生徒が主体になって本当に音楽が楽しめるクラブを作っていって欲しいと思いますね。ピアニストがいくら上手に弾こうと思っても、調律が出来ていないピアノでは音楽にならないんでね。吹奏楽の場合も同じで、生徒一人一人がちゃんと楽器を鳴らし、ちゃんと吹くことが基本です。そこをクリアした上で、僕の音楽を生徒が理解してくれて、本当の意味で音楽の中心に近い所まで行ければ、それが理想ですね。そういう観点からも、このクラブがまだまだ発展途上なのが歯がゆいですね、ほんまに。
取材班:
長時間のインタビューにご協力いただき、ありがとうございました。