我がコンクール人生。

内海 伸晃 先生

プール学院中・高等学校
吹奏楽部 顧問
(2008年6月26日現在)

取材班:
最初に先生の小学・中学・高校時代の吹奏楽人生についてお話しいただけますか?
内海先生:
僕は大阪市立中浜小学校出身で、小学5年生の時に「MBSこども音楽コンクール」の全国大会に出場し『「白鳥の湖」より「スペインの踊り」(チャイコフスキー作曲)』で全国制覇したことがあるんですよ。その時の担当楽器はベースで、先生は植島先生でした。その先生の練習法は変わっていて、生徒を並ばせていきなり「よーい、ドン!」って言うんですよ。そしてスタートが遅いと「見てみろ、だからお前はアインザッツ(フレーズの出だし)が遅いんや」って。ええ~って感じでしょ(笑)。それとか「三拍子は回転せなあかん...ジャンジャカジャンジャンジャンジャン♪ジャンジャカジャンジャンジャンジャン♪(手をぐるぐる回す)」って子どもに説明するんですよ。その当時はなんか訳のわからん練習をする先生やなと思っていましたが、今考えたら小学生の時にすごいことを教えてもらっていたなと思います。
それと、小学生にして「コンクールとはこういうもんや」とか、コンクールに対する心構えや向かう気持ちであるとか、それが人生でどんな意味を持つかなど、コンクールというものを頭に植え付けられた気がします。だから僕はコンクールが今でも大好きで、僕の人生でコンクールは避けて通れないものだと思っています。  中学は、今では吹奏楽の名門校である大阪市立城陽中学校出身で、それも第1期生にあたります。吹奏楽部に入部すると引き続きベースを担当しました。しかし小学校時代の経験があまりにも強烈だったので、正直なところ中学の部活はめっちゃだるかったです。でも他にすることも無かったんで3年間続けました。当然コンクールの結果も優良賞(今で言う銀賞)止まりで、吹奏楽の実力としては全然話になりませんでしたね。中学2年生の時には「僕、もう伴奏でブンブンばっかり弾くのは嫌です。なんかメロディーを吹く楽器に変えてください。」と先生に言ってベースからクラリネットに変えてもらいました。
中学を卒業すると大阪府立港高等学校に入学し、吹奏楽部に入部しました。でもそのクラブはちょうど同好会から部に昇格したばかりで人数も少なく、コンクールに出られるような状態ではありませんでした。じゃあ高校3年間僕は何をやっていたかと言うと、オーケストラにも興味があり大阪市ユースオーケストラにわりと練習に行っていたんですよ。それと高校生ながらに母校である大阪市立城陽中学校吹奏楽部の指導をしていました。

城陽中学校を全国大会に連れていく。

内海 伸晃 先生
取材班:
大学時代のことについてお話しください。
内海先生:
大学は、大阪教育大学に進学しました。なんでそこに進学したかというと、高校時代に大阪市ユースオーケストラに入団したんですが、その当時在籍するメンバーはみんな「レッスンに行っている」って言うんですよ。もちろん僕も上手くなりたいし、さすがに僕だけレッスンに行かないのも「具合悪いな」って思いました(笑)。それで小学校時代の恩師である植島先生に相談すると、大阪教育大学の喜田先生を紹介していただいたんです。それがきっかけですね。
それで大学に入るとすぐに、大阪市立城陽中学校吹奏楽部の指導にいれ込むことになりましたね。とにかく僕はもちろん、後輩や友達を中学校にがんがん連れてきて指導しました。その甲斐あって1976年ついに吹奏楽コンクールの全国大会に初めて連れて行くことができたんです。その当時の会場は神奈川県民ホールでした(1977年以降、現在の普門館に定着)。
でもやっぱり全国はすごいなあと思いました。こっちはR.ワーグナー作曲の『楽劇「神々の黄昏」よりジークフリートの葬送行進曲』といった暗~い曲(笑)を演奏している時に、全国大会出場常連校の出雲市立第一中学校はすでにM.ラヴェル作曲の『「ダフニスとクロエ」第2組曲より夜明け、全員の踊り』を演奏していましたからね。最初にこの曲を聴いたとき「なんじゃこれ」って思いましたもん(笑)。それと、コンクール本番前日に神奈川県民ホールに行くと「プログラム2番、大阪、関西代表、城陽中学さん、どうぞ」って。前日にリハーサルがあるのなんか知らなくて、仕方なく先乗りしていた僕ともう一人のOBの二人でステージに上がってバンバン手を叩いて「よう響くなあ」って(笑)。ほんまに情けなかったです。コンクール当日の朝にようやく大阪市立城陽中学校吹奏楽部一行が到着しましたが、寒くてチューニングが合わないやら何やらで結果は銅賞、完敗でした。その時僕は「やっぱり全国は今までの世界とちゃうぞ」とか「こんなことしとったら全然あかんわ、新しいことを考えよう」と本気で思いましたよ。ちなみにバンドレンのマウスピースに「5RV」ってありますけど、関西で採用し始めたのはおそらく僕からだと思います(笑)。
その後、吹奏楽の名門である大阪府立淀川工業高等学校吹奏楽部に行って教えてもらったり、淀工の卒業生が城陽中学校吹奏楽部を指導するようになって、昼の練習方法がすごいシステム化されましたね。そのことで、僕は曲全体の音楽的な部分をつくることに専念できたり、「これは先輩どう練習したらいいんですか?」と質問された時だけ教えれば済むぐらいに城陽中学校吹奏楽部は成長しました。

プール学院に決めた!

内海 伸晃 先生
取材班:
松井隆司先生とは大学の先輩・後輩の関係なんですよね?
内海先生:
そうなんですよ。城陽中学校吹奏楽部の指導に力を注ぎながら大学生活を送っていたそんな時に、同じく大阪教育大学に進み、当時兵庫県立明石北高等学校音楽部で顧問をされていた先輩の松井隆司先生から「内海、お前城陽中学を教えてんのか?」って声を掛けられたんです。僕が「はい」って言うと「そうか。分かった、すぐにうちに教えに来い」って(笑)。松井先生に引っ張られて、大学時代に管のトレーナーとして何回か明石北高等学校音楽部に指導に行きましたよ。そこでの経験で、僕が常々思っていた「卒業したらプレイヤーか、それが駄目でもどこかでブラバンはやりたい」という気持ちがより高まりました。
取材班:
それで結局このプール学院高等学校の先生になろうと決めたんですね。
内海先生:
大阪教育大学を卒業後、このプール学院高等学校に非常勤講師として採用されました。この学校の最初の印象は、女子高なんで当たり前ですが生徒が女の子ばっかりなんで「なんか自分の肌にはあわない学校だな」という感じでした。だからこの学校の教員採用試験を受けるかどうかは真剣に悩みました。その当時、僕は既に結婚しており子どももいましたので、早く教員になりたいとは思っていました。本当は公立高校がよかったんですが、どこも空きがありませんでした。しかしこの学校の採用条件(男性の場合は既婚者、吹奏楽の指導ができる、年齢等)は僕にぴったり当てはまっていました。だから最後には「この学校に身をうずめよう」と決心しました。

コンクールの主人公は高校3年生。

内海 伸晃 先生
取材班:
先生がプール学院高等学校に来られる前から、吹奏楽部自体はあったわけですか?
内海先生:
ありましたね。部員も一応40人くらいはいたんとちがうかな。但し、毎日練習に出て来るのが20人ぐらい。「これは重傷や、何から手をつけよう」と思いましたね(笑)。最初の5年間はあまりの下手さに合奏するのが嫌でしたもん。それに楽器もそんなにないし、だから「しょうがないかな」って感じでした。それでも週に3回くらいは練習したかな。それで3年くらい経ったある日急に、僕は生徒に言ったんです。「コンクール出えへんか?コンクール!」って。生徒は「ええーー?」って言いましたけど、その年のコンクールの高校Bに出場しました。その時初めてコンクールで演奏した曲は、ミッチェル作曲の「海の歌」です。そう言えば、その当時のクラブにはオーボエだけひたすら上手いのがいたんですよ。「タリラリラ~♪」の部分だけを聴いても「なんやこいつ!こいつだけめっちゃ上手いやんか!」と思いましたね。でも、テューバなんかは「ブー」しか鳴りませんし、ラッパはチューニングのB♭より上はまず鳴りませんでした。だから「パンパパパーン♪」のところは「何とか...何とかしてー!」って祈ってましたよ(笑)。その頃のことは、今でもやっぱり思い出深いですねぇ。
その時から毎年コンクールには出場しました。ある時保護者の方が僕に言うんです、「先生、コンクールに出たら大学に行けるんですか?」って。僕は答えました、「いいえ、大学受験には何の役にも立ちません。でも、お嬢さんには何か素晴らしいものが残ると僕は信じていますけど」。すると保護者の方は「そんなの先生が信じているだけでしょ」だって。最初の頃は保護者もある意味「敵」でしたね。また学校は学校で一銭もお金を出してくれないんですよ。辛かったですね。
僕は「高3が主人公にならないと、コンクールに出ても勝てない。健全なクラブ活動は高3が仕切らないとダメ」と思っていました。でも、当時のプール学院高校吹奏楽部では高3になったら引退するのが常でした。僕は毎年高3の4月くらいに部長に引退しないように言うんですけど、「受験が心配なんで」とか言って引退するんですわ。それを聞くと「もうええわ、勝手に行け」って感じでしたね。でもある時、その当時の部長が高2の時に負けたコンクールがすごく悔しかったらしく、「先生、もう一回コンクールやりたいです。」って言ってくれたんです。「そうか~、さすが部長やな」って、それを聞いた時は本当に涙が出ましたね(笑)。その後僕は言いました、「但し、お前が出たいって言うだけではクラブは回らんぞ。高3生全員を納得させること、それができるか」と。部長は「やってみます」って言ってくれました。で、嬉しいことに本当に3年生が初めて全員残ってくれました。それは感動的でしたよ。それから高3生がコンクールまで残るのも定着し、数年後にはJ.ヴァン・デル・ロースト作曲の交響詩「スパルタカス」でついに関西大会への出場を果たすことができました。今思い起こせば、関西大会出場まではとても長い道のりだったような気がします。その後現在に至るまではわりとトントン拍子で来たなっていう感じです。

高校3年生が全てのトレーナー。

内海 伸晃 先生

プール学院正門

取材班:
プール学院高等学校・中学校吹奏楽部の特徴をお聞かせください。
内海先生:
プール学院は私立なんですが歴史のある学校、それも女子校なんで、非常に考え方が閉鎖的なんです。トレーナーを外から呼ぶのも駄目で、結局僕が一人で全部、一から十までやらないといけないんです。太鼓も教えなあかんし、ベースも教えなあかんし、テューバも「ボー?ブーンや!」って(笑)。また、生徒に怪我させたらあかんので、楽器運びですら今でも率先して僕からやっていますよ。卒業生には結構有名なプロもいるんですけど、あんまり教えに来ませんね。僕としてはウェルカムなんやけどな(笑)。このように全て一応僕中心にクラブが回っています。でもある意味クラブを回しているのは高校3年生全員です。「僕に相談することは何か」「僕がお手伝い出来ることは何か」、これらは彼女たちが考えます。また彼女達は高2生・高1生・中3生・中2生・中1生のトレーナーの役割も担っています。
内海 伸晃 先生

屋上での練習風景

現在この学校には4つのバンドがあります。1つは中1生だけのバンド、それから中学生バンド、さらに高校Bチーム、最後に高校Aチーム。その4つのバンドを僕一人で指導しています。特に高校Bチームや中1生だけのバンドについては、トレーナーに任せるのではなく、この2つのバンドこそ僕が見ないといけないと思っています。だから高3生に僕は言います。「自分達の練習、そんなのはどうでもええ。お前達の使命は高校Bチームにどれだけ愛情を注げるか、あるいは、中学生をどれだけ可愛がって上手にするかや」と。同じく中1生以外の全部員には、「お前らええか、自分一人で上手になったんとちがうからな。中1は宝物や、中1を全員で教え!」と言ってます(笑)。だからうちの学校では中2生・中3生・高1生・高2生・高3生もみんなで中1生の面倒を見ます。中1生というのはうちの学校ではものすごく異質な存在で、例えれば幼稚園児みたいなもんです。よその吹奏楽部の中1生って言ったら結構役に立ったりするでしょ。でもうちの吹奏楽部ではまだまだ全然役には立たないからね。
で、なんでそんな方式にしたかと言うと、大阪はご存じのように私立高校がコンクールに強い。そしてそれらの学校は、みんな寄ってたかって全国レベルの上手な中学生を集めようとするんですよ。さすがにそれをされるとうちは太刀打ちできない。それで僕がこの状況を打開するために辿り着いた結論が「自社生産」。「よそは勝手に優秀な人材を集めとけ」って。『「うちの高校に来てくれませんか」って声がかかるようなプール学院中学にしたらええんやろ』って思いましたね(笑)。

高校と中学のいい関係。

内海 伸晃 先生
取材班:
プール学院は高校・中学校ともに関西大会に出場するほどの強豪校ですが、中学の部に出場し始めたのはつい2年前なんですね。
内海先生:
2006年に初めてプール学院中学校としてコンクールの中学Aに参加し、おかげさまで初年度から関西大会に出場することができたわけですが、実はその3年前から中学Aへの参加の準備は整っていたんです。ところが高校生に「中学校だけでコンクールに出さへんか」と言うと、「いや駄目です。高校チームのパートでどうしても中3生が必要なパートがありますから」って。中3生でも必要に応じて高校のAチームに入れたりしていたんでね。結局「それなら今年は諦めよう」ってことになりました。
翌年、僕はまた高校生に言いました。「そろそろやばいで。中学生をこのまま放っといたら、暴動起こすで」って(笑)。すると「先生、何言ってるんですか。部員120人みんなで高校Aを支えなきゃ駄目でしょ」って。僕も「その通りや、ええ事いうなあ」って思い、「やっぱり諦めようか」って(笑)。ところが、2年前に大阪府吹奏楽連盟から同じ指揮者が高校AとBの両方を振るのは駄目だというお達しが来たんですよ。つまり僕が振る以上高校Bへの出場はできないということです。実は高校Bには中学校の上手い子がいっぱい入っていたんですわ。それで、僕は「もう高校Bの出場は無理やから、中学Aに出るぞ」って。高校生は『えええ~~~!!』って感じでした。それでも「しょうがないやないか。それと中学Aも指揮は僕が振るから」って言いました。
中学Aに出場するのが決まった時、中学生相手に「お前ら分かっているやろな。先生もプール学院高校である程度の実績を積み、一応周りでは顔が売れているんやからな。中学の部に出て地区予選落ちなんてことがあったら、もう一生出えへんからな、わかったか、中学生!」って言いましたよ。中学生も「はい!一生懸命頑張ります!」って。そしたら地区予選でダントツの成績。「みんな良かったな、あとは僕も高校生に命をかけるから」、そう言ってその後は中学生は放っといたんです。
でも急に、高校生は焦りだしましたね。「中学生のあの勢いはやばい」って。どっちが有利かってね、圧倒的に中学生なんですよ。それを高校生も薄々分かっているから。だから地区大会予選前は中学生に「もう一回やってみ!そうそう!」ってみんな涙ぐましく教えていたけど、大阪府大会前は自分たちの方がやばいんで、「中学生を教えるのはヤメ」って感じでした(笑)。でもそのおかげで中学生がある程度自立してきたし、高校生も中学生からいっぱい刺激を受けましたね。なんせ中学校の地区予選を聴いたら「中学生は関西大会に行きそうや」っていうのが分かり、絶対中学生には負けられないって思う一方で、自分たちは「どうしよう」というところがあったんでしょう。彼女たちは必死になって練習していました。日頃の練習中の緊張感も全然違いましたよ。中学生が「ヤバい!高校のお姉ちゃんみんな本気や!」とか言うて(笑)。おかげで短期間で「ぐあーー!」と力が伸びましたね。僕もそれを見て「あぁこれは行けるわ」と思いました。実は前年(2005年)高校は大阪府大会で落ちてたんで、内心では高校・中学どっちも負けたら僕はクビかもとハラハラしてましたよ(笑)。結果はどちらも関西大会出場を果たし、本当に「良かった、良かった」という気持ちでした。

コンクールという共通認識を持って卒業してほしい!

内海 伸晃 先生
取材班:
演奏する曲目は先生が決められるのですか?
内海先生:
定期演奏会の曲目は、一応全部生徒に選ばせます。それで、「曲で分からないことがあったら聞きに来い」って言っています。但し、コンクールの曲目は最後は僕が決めます。生徒にはこう言っています、「コンクールへの思いは、お前らより僕の方が100倍強い。なんせ俺は毎年コンクールをやっているんやから」って。ちなみに、僕は全国大会を毎年聴きに行ってるんですよ。コンクールが大好きなんで(笑)。今の流行りの曲やサウンドについては僕なりにかなり勉強しているつもりです。だから、コンクールの曲目はやっぱり最後は僕が決めます。
内海 伸晃 先生

音楽室での練習風景

取材班:
コンクールのメンバー選考はどのようにしていますか?
内海先生:
高校Aの場合、基本的に高3生は全員出します。それで高3生が残りのメンバーをオーディション、僕と幹部5人も通しで全員の音を聴きます。例えばラッパの必要人数が6人のところ高3生が5人いたら、残り1名を誰にするかを最終的に自分のパート内で決定します。中学Aの場合も基本的に中3生は全員出します。そして、やっぱり高3生がオーディションします。僕は、生徒たちに共通した認識を何か持って卒業してもらいたいと考えています。「私はコンクールに出られなかったんでマーチングに出る」、そんなのでは一つも面白くないでしょ。僕はそんなのは嫌ですね。

大阪のフロンティアでいたい!

内海 伸晃 先生
取材班:
高校の今年の自由曲は「道化師の朝の歌(M.ラヴェル作曲)」、課題曲はⅢの「セリオーソ」とのことですが、その曲を選ばれた理由を教えてください。
内海先生:
自由曲の「道化師の朝の歌(M.ラヴェル作曲)」に決めたポイントは、「今年のメンバー構成で、どのパートにどんな名人がいるか」を考えた上で「このメンバーならこの曲はできるな」、そんな軽い感じで決めました。あとできるだけこの近くの学校で演奏したことのない曲を選び、「大阪のフロンティア」でいたいと考えています。メジャーな曲を選ぶ時もありますけどね。他にもいくつかこだわりがあります。例えばコンクールでは同じ曲を二度と選ばないとか、課題曲が日本モノだから自由曲は絶対日本モノを選ばないとか。
課題曲については、僕はⅠの「ブライアンの休日」にしようって言ったんですが、高校生が「ブライアンは中学生に任せましょう」って言うんですよ、偉そうに(笑)。それと今年から課題曲の制度が変わってマーチとそうでない曲が混合になったけど、うちの高校が関西大会に進めなかった年は全て課題曲がマーチの年なんです。その原因は僕がマーチの練習が嫌いだからだと思うんです(笑)。だから課題曲の制度が変わったことは、うちにとっては良かったと思います。
内海 伸晃 先生

天井の高い音楽室

取材班:
中学校の今年の自由曲は何ですか?
内海先生:
今年の中学Aの自由曲は『「交響曲第五番」より第2、4楽章(M.アーノルド作曲)』なんですが、これって法則があるんですが、どんな法則か分かりますか? 実は昨年のコンクールで高校Aが演奏した自由曲が今年の中学Aの自由曲なんです。昨年の中学Aの自由曲『「スペイン狂詩曲」より祭り(M.ラヴェル作曲)』もそうです。これだと高校生が譜読みはできているし、コードもスコアも内容も頭に入ってるから「あなたの吹いているのはこういう意味なんだよ」と中学生に教えられる、そりゃ中学生も上手くなりますよ。しかしこの方式、今年くらい周りにはバレるやろね(笑)。中学校も今年でコンクール初出場から3年目、つまり今年の中3生にはコンクールを経験したものが多数いるわけで、ある意味楽しみな年ですね。

関東のサウンドは完璧合わせ!

内海 伸晃 先生
取材班:
先生は関東のサウンドについてどう思われますか?
内海先生:
今いわゆる関東流ってどんな指導をしているか知ってます? 指揮者とは別にサウンドトレーナーが1時間程度しっかりとサウンドをトレーニングするんですよ。まさに関東流は「完璧合わせ」です。僕なんかはチューニングにはあんまり時間をかけずに「耳でよく周りの音を聞け」って言いますもんね。もうね、時代は全然違いますよ。この前関東の名門であるT高等学校と一緒に練習させてもらったんですわ。彼らのサウンドを聴いた途端、サウンドの完成度の高さに思わず「これはあかん」と思いましたね。正直打ちひしがれました。
それでT高等学校の先生にサウンドの秘密を聞くと、秘密の一つは楽器にありました。クラブで使っている楽器全てがヤマハ製なんですよ。僕もクラリネットをやっていましたから分かるんですけど(ちなみに僕は絶対クランポン派ですけど)、例えばクランポン製は音がなんかスーっとまろやかに伸びていく感じがあるけど幅が狭いというか、それに比べてヤマハ製は音の幅が広く確かによく響くんですよ。だから一つの部屋にヤマハ製の楽器が集まって音を出すと、そりゃクランポン製と違って音が鳴り響くわけです。T高等学校の場合、部員は基本的に学校所有のヤマハ製の楽器を使っていました。ちなみに個人持ちの場合、「クランポン製を持っているんですけど」とか言ってクラリネットに入ると、「悪いけどヤマハ製を買ってくれる?」って言われるらしいですよ(笑)。すごい話でしょ。「そんなことやっぱりあるんやな」とびっくりしました。僕は僕のやり方でもっといい方法を編み出せればとは思っていますけどね。
内海 伸晃 先生
取材班:
先生の今後の目標、夢などをお聞かせください。
内海先生:
目標はやっぱり、いつかはこの学校を全国大会に連れて行きたい、それだけやね。僕にとっても、それでなんか一区切りがつくのかなと思います。大阪府大会を突破するまでに苦節10年かかったから、今度は20年かかるかも分からないですけど、なんか全国でやっぱり認められたいなっていう気持ちはありますね。
取材班:
長時間のインタビューにご協力いただき、ありがとうございました。