城陽中学校を全国大会に連れていく。

内海 伸晃 先生
取材班:
大学時代のことについてお話しください。
内海先生:
大学は、大阪教育大学に進学しました。なんでそこに進学したかというと、高校時代に大阪市ユースオーケストラに入団したんですが、その当時在籍するメンバーはみんな「レッスンに行っている」って言うんですよ。もちろん僕も上手くなりたいし、さすがに僕だけレッスンに行かないのも「具合悪いな」って思いました(笑)。それで小学校時代の恩師である植島先生に相談すると、大阪教育大学の喜田先生を紹介していただいたんです。それがきっかけですね。
それで大学に入るとすぐに、大阪市立城陽中学校吹奏楽部の指導にいれ込むことになりましたね。とにかく僕はもちろん、後輩や友達を中学校にがんがん連れてきて指導しました。その甲斐あって1976年ついに吹奏楽コンクールの全国大会に初めて連れて行くことができたんです。その当時の会場は神奈川県民ホールでした(1977年以降、現在の普門館に定着)。
でもやっぱり全国はすごいなあと思いました。こっちはR.ワーグナー作曲の『楽劇「神々の黄昏」よりジークフリートの葬送行進曲』といった暗~い曲(笑)を演奏している時に、全国大会出場常連校の出雲市立第一中学校はすでにM.ラヴェル作曲の『「ダフニスとクロエ」第2組曲より夜明け、全員の踊り』を演奏していましたからね。最初にこの曲を聴いたとき「なんじゃこれ」って思いましたもん(笑)。それと、コンクール本番前日に神奈川県民ホールに行くと「プログラム2番、大阪、関西代表、城陽中学さん、どうぞ」って。前日にリハーサルがあるのなんか知らなくて、仕方なく先乗りしていた僕ともう一人のOBの二人でステージに上がってバンバン手を叩いて「よう響くなあ」って(笑)。ほんまに情けなかったです。コンクール当日の朝にようやく大阪市立城陽中学校吹奏楽部一行が到着しましたが、寒くてチューニングが合わないやら何やらで結果は銅賞、完敗でした。その時僕は「やっぱり全国は今までの世界とちゃうぞ」とか「こんなことしとったら全然あかんわ、新しいことを考えよう」と本気で思いましたよ。ちなみにバンドレンのマウスピースに「5RV」ってありますけど、関西で採用し始めたのはおそらく僕からだと思います(笑)。
その後、吹奏楽の名門である大阪府立淀川工業高等学校吹奏楽部に行って教えてもらったり、淀工の卒業生が城陽中学校吹奏楽部を指導するようになって、昼の練習方法がすごいシステム化されましたね。そのことで、僕は曲全体の音楽的な部分をつくることに専念できたり、「これは先輩どう練習したらいいんですか?」と質問された時だけ教えれば済むぐらいに城陽中学校吹奏楽部は成長しました。