吹奏楽を指導し続けて42年。

羽地 靖隆 先生

尼崎市立尼崎高等学校吹奏楽部 顧問
兵庫県吹奏楽連盟 副理事長
2011年尼崎市文化功労賞受賞
(2012年10月27日現在)

取材班:
最初に、先生の吹奏楽の経歴を簡単にお話しいただけますか?
羽地先生:
私は中学1年まで沖縄県の伊良部島で生活していました。中学2年の時に父の仕事の都合で尼崎市に転校して来ました。当時楽器を持つということは大変な時代で、学校にオルガンがやっとあるくらいで、ピアノももちろんありませんでした。そんな時代ではありましたが、尼崎市立尼崎東高等学校に進学してから、なぜか「楽器をやってみようかな」と思って吹奏楽を始めたのが最初のきっかけです。残念ながら、その尼崎市立尼崎東高等学校も昨年の春に尼崎産業高等学校と統合してなくなってしまったのですが...。恩師は馬場武彦先生で、そこでホルンを担当していました。私が卒業した後にはコンクールの全国大会にも出場するぐらい吹奏楽の活発な学校になりました。私がいた頃はそうでもなく、みんなで楽しく遊んでいました。当時は田んぼばかりの中に学校がポツンと建っているような環境でしたから、外で楽器を吹いてもマーチングをやっても、周りから苦情がくることはありませんでした。そんな感じで高校時代に音楽の楽しさを知り、大学は作陽音楽大学に進学しました。そこで教員免許を取得し、卒業した1971年からずっと吹奏楽の指導を始め、今年で42年になります。

荒れた中学校で音楽を教える。

荒れた中学校で音楽を教える。
取材班:
現在は尼崎市立尼崎高等学校で吹奏楽部の指導をされてますが、以前は市内の中学校にも勤務されていらっしゃったんですよね。
羽地先生:
はい。1971年に尼崎市立若草中学校に赴任したのが最初ですね。そこで6年間勤めた後、尼崎市立啓明中学校で7年、尼崎市立昭和中学校(今は明倫中学校と統合して中央中学校という名前になっていますが)で8年、尼崎市立園田中学校で5年、そして今の尼崎市立尼崎高等学校に至ります。
取材班:
各中学校ではどのように吹奏楽の指導をされていたのですか?
羽地先生:
若草中学校で6年間勤めた後に赴任した啓明中学校は市内でも悪評の荒廃した学校で、教育委員会の方から強制配転で赴任しました。ほとんど、窓ガラスの無い学校でした。最初はずっと生徒達とケンカばっかりしていました。吹奏楽部の部員もたくさん辞めてしまっていて、私がこの学校に来た時には部員は5人ぐらいしかいませんでした。僕の前任に女性の音楽の先生がおられましたが、女の先生一人では大変で、結局1年で転勤されました。とにかく音楽室に釘が打ちつけられていて入れなかったりするなど、音楽の授業が普通に出来る状況ではなかったんですよ。私はとにかく地域の人々やPTA会長を捕まえて、生徒が卒業生とたむろしているあっちこっちの場所に行って、彼らといろいろ話をしたんです。そうしている内に、次第に結構生徒が私に寄ってくるようになったんですよ。それでやっと音楽室で音楽の授業を普通にやれるようになりました。その後も生徒達といろいろ知り合いになるうちに、彼らも私の言うことをよく聞いてくれるようになって、いろいろ協力してくれるようになりました。シンナーを吸っていた連中が、朝一緒に掃除をしてくれるようにまでなりましたよ。
あと嬉しいことに、PTAを含めた地域の人々が、音楽で地域を盛り上げようということで後援会を作ってくれました。とは言え、楽器なしでは話が始まらないんで、私も教育委員会に行き、座り込んで「楽器を買って下さい」と言いました。すると、その当時の教育長(今でも演奏会を観に来てくださるんです)が「100万円を出す」と言ってくれたんです。その当時の100万円ですから、今の価値で言うともっと大きい金額です。それでも楽器はまだまだ足りませんでした。すると今度は、後援会が年間で300万円ぐらいのお金を用意してくれました。本当に嬉しかったですね。おかげで夏休みの約1週間、総勢30人ぐらいで"たそがれコンサート"を開催することができました。観客も結構集まって来ましたよ。こんな風にみんなが協力してくれたおかげで、やっと音楽ができるようになりました。
学校の環境がだんだん落ち着いてくると、不思議なことに生徒達も勉強をするようになるんですよ。高校に進学して吹奏楽コンクールの全国大会に出場した子もいますし、あの頃の生徒でプロの音楽家になった子も結構いますよ。教育委員会もすごく応援してくれて、学校に冷暖房をつけてくれたり、二重窓にしてくれたり...。とにかく当時の教育長がすごい方で、その後啓明中学校だけじゃなくて、尼崎市内の他の中学校にも楽器を購入し、市内の吹奏楽も盛り上がってきました。このように啓明中学校の時は大変でしたね。今でも学校の下を1メートルくらい掘ったら、当時のガラスが出てくるんやないかな(笑)。
荒れた中学校で音楽を教える。

音楽室での合奏風景

取材班:
その後は昭和中学校に8年間赴任されて、1991年には吹奏楽コンクールの全国大会にも出場されていらっしゃいますよね。
羽地先生:
昭和中学校は吹奏楽部の規模も大きく、部員が60人ぐらいおりましたので、吹奏楽コンクールの全国大会出場を目指しました。そして赴任7年目に『交響詩≪魔法使いの弟子≫』で吹奏楽コンクールの関西大会に出場。最後の8年目には『歌劇≪運命の力≫より序曲』で全国大会に出場し、金賞をいただきました。公立の中学校は7・8年経つと人事異動がありますので、その後園田中学校に赴任しました。そこで勤務したのは5年間なのですが、最初の年は尼崎市の海外派遣でヨーロッパに行っていましたので、私が吹奏楽コンクールで指揮を振ったのは4回です。園田中学校の吹奏楽部はなかなか優秀で、ずっと関西大会に出場していました。1995年には『バレエ音楽≪白鳥の湖≫より』で全国大会に出場しました。そしてその後、1997年より尼崎市立尼崎高等学校で指導することになりました。

中学校から高校へ。ゼロからのスタート。

中学校から高校へ。ゼロからのスタート。
取材班:
中学校から高校への異動もあるのですね。
羽地先生:
私が高校の教員免許を持っておりましたのと、教育委員会から是非にと言われまして。でもその時は阪神・淡路大震災の後で大変でしたので正直迷ったんですが、最終的には「行きます」と返事をしました。今でこそこんなに立派な建物ですが、赴任当時は震災で校舎もつぶれてしまっていてプレハブでした。赴任早々に校長から「クラブ活動もいいけど生徒指導してくれ」って言われたんですよ(笑)。とにかくみんなガタガタしていて大変だったんです。本当に学校と呼べる状態じゃなかったですから。正直「早く、どっかに転勤したい」と思いました(笑)。ホントですよ、「この子らなんやねん」と思いました。みんな、先生が並べって言っても全然並びませんから。だから最初の4・5年ぐらいは、クラブをするのも大変でした。何しろ吹奏楽部の部員も10名ほどしかいなかったんで、吹奏楽コンクールも最初の2年間は小編成の部門で出場していました。当時、南武庫之荘中学校に嶋名先生という方がおられて(今は教育委員会にいらっしゃいますが)、その先生にも協力いただきながら、その後少しずつ部員を増やしていきました。それで部員数が30人ぐらいになった時に、コンクールの地区代表になりました。そして部員数がちょうど50人になった時に、県を代表して関西大会に出場しました。2003年の『バレエ音楽≪白鳥の湖≫より』を演奏した時ですね。ちょうどその辺りくらいから学校が落ち着いてきたこともあって、生徒達も勉強とクラブの両立ができるようになってきました。入学してくる中学生の質も少しずつ良くなってきました。このころから関西大会の常連校としての芽生えがあると同時に、2008年兵庫県の高校入試が複数志願制にかわったこともあり、入部希望者が増えました。部員数がたくさん集まったことも影響して、2009年からまさしく関西の常連校となりました。今では部員も122人になりました。

生まれ変わった市立尼崎。

生まれ変わった市立尼崎。
取材班:
先生から見て、今の尼崎市立尼崎高等学校はどんな学校ですか?
羽地先生:
市尼高は、県内でも一番落ち着いていると思います。そして、市尼には風紀違反をしたり職員に反抗する生徒もいません。遅刻もゼロです。指導部として毎朝、校門に立っていますが、授業が35分に始まるのに対し、生徒達の多くは20分にはもう校門にはいません。そして25分にはもう教室で、自分達で本を読んでいたり、問題集をしたり、10分間を無駄にすごしていません。毎時間、授業開始3分前にベルが鳴りますが、3分前になったらもう生徒達は教室に入っています。だからよほどのことがない限り、生徒達は絶対遅れない。全校集会でも3分ほどで見事に整列しています。このように今の学校の雰囲気はとてもいい感じです。
あと、複数志願制になってから、吹奏楽部希望者が集まるようになりました。今年も吹奏楽部の生徒で神戸大に合格した子もいます。他にも大阪市大や、関関同立などたくさん合格した生徒がいますが、多くは吹奏楽部なんです。3年生の11月になってもまだ楽器の練習をしていますが、クラブしながらでもやることはやっています。これが市尼の文武両道です。生徒達は補習が終わった後、クラブの練習に来ます。補習以外にもいろいろな事情があり欠席する生徒もいますが、時間を見つけて基礎練習をします。自分のことは自分でやろうという...自主性ですかね。「今日は練習休み」って言っても、生徒達は自主練習をします。試験期間中でも絶対45分から1時間は吹いています。自分達だけでも毎日吹いていないと気が済まないようです。それで、吹き終わった後は残って勉強しています。試験前でも学校残って勉強をしている生徒もいます。
取材班:
ということは、吹奏楽をやりたくてこの学校に入る生徒が多いってことですか?
羽地先生:
ほとんどそうです。本校には特色選抜入試というのがあって、試験は面接と小論文だけなんですが、この試験で合格する生徒はむしろ成績がいいです。そこで36名合格しますが、この子らと後からの一般入試で成績の良かった子を混ぜて、学力の高い生徒を集めたクラスを2クラス作っています。吹奏楽部の部員のほとんどがそこに在籍しています。演奏会などで公欠になった場合、その教室には授業を受ける生徒がほとんどいなくなります(笑)。来週も定期演奏会で授業を抜けてしまうんです。

年間70にも及ぶ演奏機会。

年間70にも及ぶ演奏機会。
取材班:
定期演奏会のパンフレットを拝見しましたが、吹奏楽部の年間行事が物凄く多いですね。
羽地先生:
そうですね、だいたい年間に70回くらいあります。学校行事での演奏はもちろん、コンクールの他にアンサンブルコンテストやマーチングコンテスト、3000人の吹奏楽、ひょうごブラスフェスティバルにも出場しますし、地元の立花フェスタや立花商店街子ども祭り、兵庫県連合婦人大会、老人ホームの慰問演奏、他にも多数出ています。あと、甲子園の応援にも行きます。
取材班:
羽地先生と言えば、甲子園での沖縄県代表の応援演奏でも有名ですね。
羽地先生:
僕、沖縄県の出身なんで、それで膨大な遠征費がかかる沖縄県代表校の応援演奏を始めたんです。沖縄からだと吹奏楽部が応援に来ようにもお金もかかるし、楽器を運んだりするのが大変じゃないですか。沖縄出身だけに少しでも沖縄の人の力になれればと思い、沖縄県代表校の応援演奏を始めました。啓明中学校にいた1981年の時からですから、もう30年余り続けています。その時の教え子の子供が部員にいます。親子で甲子園の応援に行きますよ。春と夏を合わせたら、もう120試合以上は応援に行きましたね。沖縄の高校も代表になったら、すぐに電話がかかってきます。2010年の時なんか、春の選抜高等学校野球大会に沖縄県から嘉手納高等学校と興南高等学校の2校が来ました(笑)。春の選抜だから行けたんですよ。夏だったらコンクールと重なって大変でしたね。昭和中学校の時、沖縄水産高等学校が1990年・1991年と2年連続で決勝戦まで残ったんですよ。もちろんその時もずっと応援には行っていましたが、応援から帰ってきてすぐに体育館で合宿をし、コンクールの関西大会に出場しました。1991年の時はそれで全国大会に行っちゃいました(笑)。今年も吹奏楽コンクール兵庫県大会の前日に、甲子園にみんなで応援に行きました。
取材班:
甲子園への応援はコンクールメンバーも行くんですか?
羽地先生:
はい、行きます。吹奏楽コンクールは人数制限があるので全員が出れないでしょ。だからそれ以外の行事には、1年も2年も3年もみんなでやろうというのが基本ですね。スケジュールによっては分担することも稀にありますけど、甲子園の応援演奏は絶対全員で行きます。
取材班:
今までコンクール本番と野球の応援の日程が同じ日になったことはないんですか?
羽地先生:
中学校を指導しているときに1回ありました。その時は運が良く、コンクールの演奏順が1番目か2番目かだったので、コンクールの演奏が終わるとすぐに甲子園まで電車で向かいました。あと、一昨年の沖縄の興南高等学校が優勝した時も、吹奏楽コンクール兵庫県大会の高校B部門が三田市総合文化センターで行われ、本番の演奏が終わりしだい甲子園にかけつけたこともありました。甲子園に着いたら試合開始5分前でした(笑)。
取材班:
そう言えば、沖縄県勢で春夏通して初めて優勝した学校は1999年の選抜高等学校野球大会で優勝した沖縄尚学高校でしたね。
羽地先生:
そうです。あの時の応援演奏も私がやりました。優勝記念パーティーにも呼んでいただきました。とにかく甲子園には32年間ずっと行っていますからね。春夏全部、1回も休んだことはありません。最近では、沖縄県以外の学校からも応援演奏を頼まれるようになって、今年の春の選抜では長野県の地球環境高等学校の応援に行きました。その前は北海道旭川南高等学校、それから北海道鵡川高等学校も2~3回行きましたね。昨年は福岡県の九州国際大学付属高等学校にも頼まれたんですけど、東日本大震災の起きた後だったんで、結局応援演奏を自粛することになりました。とにかく、春の選抜で沖縄県から代表が出てこなかったら、どこかの高校から依頼がありますね(笑)。
取材班:
甲子園の応援演奏を含めて、本当に一年間ずっと行事続きですね。
羽地先生:
毎年8月なんて休みなしですよ(笑)。あと、夏の甲子園では2年に1回、大阪と兵庫の持ち回りで開会式と閉会式の演奏が当たっていまして、それもこの市尼が中心でやっているんです。今年も8月5日に開会式の合同練習会がありました。そして同じ日に立花商店街の子ども祭りの演奏と重なりました。それで7日には開会式のリハーサル、8日は開会式の本番なんですが、この日は同じく吹奏楽コンクール県大会のB部門の本番と重なりました。朝、甲子園で開会式の演奏をして、11時くらいに学校に戻り、昼から三田市総合文化センターでのコンクールに出演しました。もう大変でしたが、結果は最優秀でした。他にも同日に2つ以上の演奏予定が入っている時が年に何回かあります。

たとえ短時間でも、基礎練習を毎日。

たとえ短時間でも、基礎練習を毎日。
取材班:
普段生徒さん達はどんな練習をされているんですか?
羽地先生:
基礎練習がほとんどです。ハーモニーの練習とか音階練習のトレーニングがほとんどです。それは誰でも出来るものではありません、出来る生徒にさせています。「もっとこんな音を出そう、もっとこんな音を出そう」って音の音色を合わせていますよ。今は定期演奏会の前なので、基礎練習は少なめにし、後は曲の練習をしています。市尼の吹奏楽部は普段から基礎練習をしっかりしているので、基本の音はできています。だからいざ曲をやらせても早いです。譜読みも早いし、すぐ対応できる。もう懐メロからマーチ、クラシック、何でも演奏します。幼稚園や保育所にも演奏に行きますよ。保育所なんかは子どもの歌や「マルマルモリモリ♪」をやったりします。そうかと思ったら、老人ホームで戦前の曲を演奏します。楽譜を10曲くらい与えたら、翌日にはすぐ吹けますからね。でないと間に合いません。他校では、前年の12月くらいからコンクールの自由曲の練習を始めるところもあるみたいですけど、市尼はその年の5月ぐらいに曲を決めます。それどころかコンクールの前日でも他のことをやっていますからね。コンクールだけに頼ってしまったら、勝ち負けが全てになってしまうので音楽が楽しくないと思うんです。だからいろんなことに挑戦しています。
取材班:
これだけ本番が多いと練習も大変だと思うのですが、朝練などをされているのですか?
羽地先生:
朝も昼もしないですね、練習は放課後だけです。夏は外が明るいので大体18時半から19時ぐらいまで。冬になったら17時半ぐらいまで練習します。補習などで冬の平日は結局1時間ぐらいしか練習できませんね。楽器の「持ち方」と「たたき方」とか、「ここが悪かったら絶対吹けないので、それを直しなさい」などアドバイスします。楽器は最初、音は鳴ります。だけど後々のことを考えると、ダメなところは早目に直しておかないといけないんです。いつまでたっても伸びない生徒はそれが直っていない、逆にそれが直ってくる生徒は伸びます。実は今いる部員は全員が中学校の時から何らかの楽器をやっていた生徒達ばかりで、全くの初心者はいないんですよ。1年生は本当にゼロです。2・3年生の中には元々中学では違う楽器をやっていたけど、この学校に入ったら部員が多いので別の楽器を始めたものが何人かいます。別に入部の条件に経験者っていう項目があるわけではないんですけど、今はそんな状況です。
たとえ短時間でも、基礎練習を毎日。

演奏会準備の確認をする羽地先生

取材班:
土日などの練習は?
羽地先生:
試験前は休みにしますが、あとは大体毎週練習しています。夕方まで練習を行う日もありますが、大体は朝から昼までです(コンクール前は例外です)。しかし生徒達はなかなか帰らないんですよ。平日も19時までの練習が終わってもすぐに家に帰らない。だからいつも「早く帰りなさい」って怒るんです、「お前ら家が無いんかい」って(笑)。とにかく生徒達は学校が大好きです。私は文武両道は大事だと思っています。だから生徒達には言うんです、「クラブばっかりはあかん、勉強は絶対せなあかんぞ」また、「家のことも大事やから、家のことをしなさい」って言ったりしますね。すると、そういう子は自分の判断でみんなの邪魔にならないように静かにそっと抜けて帰りますよ。
取材班:
普段先生が指揮を振られるのは、合奏の時だけですか?
羽地先生:
そうです。生徒が振るのはマーチングの時ぐらいですね。マーチングなどの指導については、寺西先生に見ていただいています。それからもう一人岩山先生という方にもお願いしています。定期演奏会では私と寺西先生と岩山先生の3人で指揮を振ります。あと、やっぱり部員に女の子が多いので、何かあった時のために野瀬先生という若い女の先生にも居てもらっています。ちなみに、うちの部の定期演奏会でずっと司会をしてくれている坪井さんは、尼崎市立成良中学校の音楽の先生をされていますが、実はここの吹奏楽部のOGなんですよ。
取材班:
先生が選ぶコンクールの自由曲はクラシックが多いようにお見受けしますが。
羽地先生:
そうです、もうそればっかり。ややこしいトンチャンした曲は僕が嫌いだから(笑)。でも、今年の3月の尼吹連定期演奏会では、C.T.スミスの『フェスティバル・ヴァリエーション』を、その前の年は『華麗なる舞曲』をやりました。来年の3月の演奏会の曲ももう決めているんですよ。『ルイ・ブルジョワの賛歌による変奏曲』っていう高度なテクニックのいる曲。それで生徒を鍛えて別の曲でコンクールに行く。だからコンクール前の5月頃になって初めて曲を演奏しても、1か月半ぐらいあったら大丈夫です。プロはそうだからね、毎日一つの曲をずーっとやるわけじゃないんだから。基礎さえしっかりやっていたら、後は楽譜が読めたら一緒です。ちなみに市尼では機械を使ってのチューニングはほとんどしません。部員数が百数十人いますので「まずはB♭を合わせます」ってそんなことをやっていたら1時間ぐらいかかります。だから、ハーモニーディレクターの音に合わせ全員でチューニングをします。簡単に自分達同士で音を合わせます。1年生はすぐにはできないけど、すぐに慣れてきます。コンクール本番の時も同じで、チューニングはほとんどしないですね。

まずは日々の生活をきちんと。

まずは日々の生活をきちんと。
取材班:
生徒を指導される際に、先生が特に気を遣っていらっしゃることはありますか?
羽地先生:
そうですね、やっぱり一緒にやっているのでお互い信頼してやろうってことでしょうか。私も人間ですから間違いもあります。だから「先生が間違っていたら『間違ってる』って言ってくれ」と言います。100%完全な人は絶対いないからね。あと音楽面よりも生徒達の生活面の話をすることが多いですね。私は練習を始める前後に一言しゃべるんですけど、その時には世間話をしたりいろんな話をします。「女やから出来ないってことはないぞ」とか、「人が見ているから練習をし、見ていないからサボるのどうかなとか、なんでもそうや。先生が見ているから勉強するとか、そんなのはあかん。」「日常の五心」って紙を貼っていますが、「あれ何人読んでいるんや」とか、「おかんに生んでくれてありがとうって言うた人が何人おるんや」とかね。だけど中には「生んでくれてありがとう」って言った子も何人かおります。そういう練習以外のことを、練習を始める前後に話すんです。時には優しいことを言ったり、厳しいことを言ったりもします。例えば、部員は女子が多いですから、スカートを気にせんと座ったりしている子にははっきり言います、「見苦しい」って。僕も言うのは恥ずかしいんですけど、誰かが言わないとあかんから言うんです。クラブで練習を始めたら、あんまりごちゃごちゃは言いませんけどね。だけど生活面についてはやかましいことを言います。そうしながら生徒達との触れ合いを大事にして行かなあかんかなぁと思っています。人間対人間としてね。一応お互い大人やからね。
まずは日々の生活をきちんと。

音楽室に貼ってある「日常の五心」

取材班:
生徒たちの普段の生活のことも気にかけていらっしゃるんですね。
羽地先生:
掃除やいろいろなことをさせても1年生が一番気がつかないです。でも、3年生は1年生に「ああしろ、こうしろ」って絶対言わないです。3年生は自らのことをしっかりします。それで私が1年生に言うんです、「3年生がやっているのに、あんたらボーっとして何をしてんねん。私がしますっていう気持ちが大事なんと違うん?」って。1年生は「自分がやらないと」って思って、「先輩、私がします」と行動します。「ありがとう」が言えたり、人間として当たり前のことが出来ていたらすばらしいと思っています。「世の中に出て行っても、それで飯が食えるぞ」と。逆に「そんなことも出来ない奴は飯も食えないよ」って言うんですよ。勉強ももちろん大事だけど、挨拶も含め、「自分がやる」と積極的に言うようになったらいいんですよ。勉強でもそうだと思うんです。やれやれと言われてするより「自分がやらなあかん」と気づく生徒は伸びていますね。

必要経費は自分たちで稼ぐ。

必要経費は自分たちで稼ぐ。

演奏会に向けて歌と踊りの
練習をする3年生たち

取材班:
部費が毎月2千円とお聞きしましたが、安いですね。コンクール県大会の最優秀賞をとった高校で部費がそんなに安いところって、全国47都道府県探しても他にないんじゃないでしょうか?
羽地先生:
うちは安いんですよ。だから月2千円で「高い」って言う奴がおったら、「何言うとるんじゃ、楽器の修理を1回するだけで2~3万円はするんやぞ」って言いますよ。指導者を呼ぶのにもレッスン代がかかるので、1ヵ月に1回とか2ヵ月に1回ぐらいです。他の吹奏楽の強豪校なんかはもっとお金をかけていますが、私は生徒にこう言っています、「お前らは頭を使え」と。水前寺清子の歌にある「ボロは着てても心の錦」ってやつですよ。たとえ楽器はボロでも自分らの工夫次第でいい音楽が奏でられると思います。そのためには頭を使えと言うんです。
必要経費は自分たちで稼ぐ。 立花商店街の子ども祭りではもちろん演奏もやるんですけど、そこで生徒達は物品の販売の手伝いもするんですよ。トウモロコシを売ったり、ジュースを売ったり、...お祭りなんでね。そこで少しお金を稼いできます。また年間の行事の中には、出演する事で少しお金をいただける行事もあります。そんなことをいろいろやっているうちに、年間100万ぐらい稼ぎます。尼崎市に毎年楽器を買ってもらうことは難しいんで、こうして自分達で工夫を凝らしてお金を集め、クラブの運営をしています。

頼もしい保護者会。

頼もしい保護者会。
取材班:
公立学校では、お金の面で苦労するって話を良く聞きますからね。
羽地先生:
定期演奏会の場合、プログラムの後ろの方に広告スペースを設けてあって、みんなで広告料を集めてきます。そのお金はプログラム代に全て使います。その他に、実はこの吹奏楽部には保護者会というものがあり、保護者の方がこの部を後方からバックアップしてくれています。演奏会があると、親が1人1万円ずつ協賛してくれるんですよ。だから合計で120万円ほど集まります。ピアノを習っても、ちょっとしたことや発表会で1万円ぐらいする時がありますよね。また、アルカイックホールで演奏するのに普通1万円では演奏できないでしょ。保護者の方もそのことをよく理解してくれています。それにそのお金は保護者会が自主的に各保護者から集めてくれますし、演奏会の会計も当日の受付も全部計画的にやってくれます。とにかく協力的ですよ。本当に親の力はすごいと思いますし、助けられ感謝しています。

吹奏楽の魅力とは。

吹奏楽の魅力とは。
取材班:
先生にとって吹奏楽の一番の魅力は何ですか?
羽地先生:
やっぱり、みんなで一つのものを作り上げる、ということかな。良かろうが悪かろうが、一つのことに向かってみんなでやれるのが吹奏楽の魅力だと思います。だから例えば演奏会でソロ奏者を決める時に、3年生より2年生に上手な者がいたとしても、今年で最後やから3年生にさせようかなと思ったりします。コンクールのメンバー決めも学年に関係なくオーディションをやりますけれど、少しは3年生を優先して選ぶようにしています。
吹奏楽の魅力とは。
取材班:
それでは、最後に先生のこれからの夢をお聞かせください。
羽地先生:
最近では毎年吹奏楽コンクールの関西大会にも出場していますし、特に昨年と今年は2年連続で県の最優秀賞をA部門B部門の両方でいただいています。だから兵庫県では、周りからライバル視されていると思うんですよ。そういう風に相手から追いかけられる立場であることが私にとっては楽しいことですし、また逆にもっともっと上を目指して頑張ろうっていう気持ちにもなります。ただ、大阪の私学にはどうしても勝てないんですよ(笑)、やっぱりあれだけお金をかけられたら。でも兵庫県の場合はそうではなく公立高校が強いんです。少しでも他の公立高校に負けないように頑張っていけたらなぁと思っています。来年は国民文化祭か、全国高等学校総合文化祭かのどちらかに出場できればと考えています。おそらく両方とも県の推薦がなかったら出られないんですけどね。でもやっぱり、「やるからには上を目指さないと!」って思っています。
取材班:
長時間のインタビューにご協力いただき、ありがとうございました。