荒れた中学校で音楽を教える。

荒れた中学校で音楽を教える。
取材班:
現在は尼崎市立尼崎高等学校で吹奏楽部の指導をされてますが、以前は市内の中学校にも勤務されていらっしゃったんですよね。
羽地先生:
はい。1971年に尼崎市立若草中学校に赴任したのが最初ですね。そこで6年間勤めた後、尼崎市立啓明中学校で7年、尼崎市立昭和中学校(今は明倫中学校と統合して中央中学校という名前になっていますが)で8年、尼崎市立園田中学校で5年、そして今の尼崎市立尼崎高等学校に至ります。
取材班:
各中学校ではどのように吹奏楽の指導をされていたのですか?
羽地先生:
若草中学校で6年間勤めた後に赴任した啓明中学校は市内でも悪評の荒廃した学校で、教育委員会の方から強制配転で赴任しました。ほとんど、窓ガラスの無い学校でした。最初はずっと生徒達とケンカばっかりしていました。吹奏楽部の部員もたくさん辞めてしまっていて、私がこの学校に来た時には部員は5人ぐらいしかいませんでした。僕の前任に女性の音楽の先生がおられましたが、女の先生一人では大変で、結局1年で転勤されました。とにかく音楽室に釘が打ちつけられていて入れなかったりするなど、音楽の授業が普通に出来る状況ではなかったんですよ。私はとにかく地域の人々やPTA会長を捕まえて、生徒が卒業生とたむろしているあっちこっちの場所に行って、彼らといろいろ話をしたんです。そうしている内に、次第に結構生徒が私に寄ってくるようになったんですよ。それでやっと音楽室で音楽の授業を普通にやれるようになりました。その後も生徒達といろいろ知り合いになるうちに、彼らも私の言うことをよく聞いてくれるようになって、いろいろ協力してくれるようになりました。シンナーを吸っていた連中が、朝一緒に掃除をしてくれるようにまでなりましたよ。
あと嬉しいことに、PTAを含めた地域の人々が、音楽で地域を盛り上げようということで後援会を作ってくれました。とは言え、楽器なしでは話が始まらないんで、私も教育委員会に行き、座り込んで「楽器を買って下さい」と言いました。すると、その当時の教育長(今でも演奏会を観に来てくださるんです)が「100万円を出す」と言ってくれたんです。その当時の100万円ですから、今の価値で言うともっと大きい金額です。それでも楽器はまだまだ足りませんでした。すると今度は、後援会が年間で300万円ぐらいのお金を用意してくれました。本当に嬉しかったですね。おかげで夏休みの約1週間、総勢30人ぐらいで"たそがれコンサート"を開催することができました。観客も結構集まって来ましたよ。こんな風にみんなが協力してくれたおかげで、やっと音楽ができるようになりました。
学校の環境がだんだん落ち着いてくると、不思議なことに生徒達も勉強をするようになるんですよ。高校に進学して吹奏楽コンクールの全国大会に出場した子もいますし、あの頃の生徒でプロの音楽家になった子も結構いますよ。教育委員会もすごく応援してくれて、学校に冷暖房をつけてくれたり、二重窓にしてくれたり...。とにかく当時の教育長がすごい方で、その後啓明中学校だけじゃなくて、尼崎市内の他の中学校にも楽器を購入し、市内の吹奏楽も盛り上がってきました。このように啓明中学校の時は大変でしたね。今でも学校の下を1メートルくらい掘ったら、当時のガラスが出てくるんやないかな(笑)。
荒れた中学校で音楽を教える。

音楽室での合奏風景

取材班:
その後は昭和中学校に8年間赴任されて、1991年には吹奏楽コンクールの全国大会にも出場されていらっしゃいますよね。
羽地先生:
昭和中学校は吹奏楽部の規模も大きく、部員が60人ぐらいおりましたので、吹奏楽コンクールの全国大会出場を目指しました。そして赴任7年目に『交響詩≪魔法使いの弟子≫』で吹奏楽コンクールの関西大会に出場。最後の8年目には『歌劇≪運命の力≫より序曲』で全国大会に出場し、金賞をいただきました。公立の中学校は7・8年経つと人事異動がありますので、その後園田中学校に赴任しました。そこで勤務したのは5年間なのですが、最初の年は尼崎市の海外派遣でヨーロッパに行っていましたので、私が吹奏楽コンクールで指揮を振ったのは4回です。園田中学校の吹奏楽部はなかなか優秀で、ずっと関西大会に出場していました。1995年には『バレエ音楽≪白鳥の湖≫より』で全国大会に出場しました。そしてその後、1997年より尼崎市立尼崎高等学校で指導することになりました。